ROCK READING 幸福王子の「馬鹿かお前らは!」を、原作と比べながら考える
幸福王子、見てきました!
率直に今年見た舞台で一番好きで、勢いのまま「姫*1」の自覚が生まれました。ワタクシ今日から姫ですので、みなさま何卒お見知りおきください。
今回は、原作との対比から見るロックリーディング幸福王子の感想を書けたらなと思います。あらかじめお断りしますが、これはオタ活の延長にあるブログで、私は文学にも舞台芸術にも明るいわけではないので、あくまで「感想文」と捉えていただけますと幸いです。
姫のみなさまのレポで、大千穐楽にて本高くん*2 が「『馬鹿かお前らは!』というセリフにいろんな意味が込められています。ぜひ考えてみてください」といった旨の発言をされたと読み、従順なオタクなので考えてみようと思います。
■舞台版のうろ覚えレポ
「ーーある街を見下ろす小高い丘に、王子の像が立っていた。
その王子は金で装飾され、ルビーの剣をたずさえ、両の瞳はサファイアでできていた。
人々は王子をたいへん好いて、『幸福な王子』と呼んだ。」
劇場には幸福な王子を呼ぶ声が溢れます。
「幸福な王子!」「幸福な王子!」「幸福な王子!」
しかし王子はそれを一蹴します。
「馬鹿かお前らは!」
同じ街に、1羽のツバメがいました。ツバメの仲間はみんな、冬を越すために暖かいエジプトへ旅立ってしまったけど、ツバメは薔薇(原作では葦)に熱烈に恋をしたので出遅れたのです。ちなみに薔薇との関係は、ツバメがひとりでに薔薇に失望して終わります。
お話は、そのツバメが王子の像の足元で、夜を越そうと降り立ったところから動き出します。
さて休もうと思ったツバメは、王子が泣いていることに気づきます。
「あんたは幸せなのに、なんで泣いているんだ?」
王子はこたえます。
「この街は不幸な人々であふれているのに、おれは両足が台座に固定されていて動けないんだ!」
生きているうちは、自由気ままに生きて快楽を味わった。でも銅像となってここで動けぬまま何百年も生きて気づいた。幸福は快楽とイコールではない。だけど銅像だから何もできないままだ。泣けてくるだろこんなの!と。文字だけで伝えるとさわやかな王子さまを描くかもしれませんが、この作品の王子は『キレキャラ*3』です。
そこから、ツバメは王子の手足となり、王子の目や剣の宝石、最後には王子がまとう黄金までもを、王子の指示通り困窮している人々に届けます。
「なんで裕福な人間と、貧しい人間がいるんだ?」
とツバメ。
「この世の全てはゼロサムなんだ。誰かの勝ちは誰かの負け。経済においては、勝者は永遠に勝ち続けるように知恵を働かせる。」
と王子。
「ほーん、そういうものか。」
人間はよく分からないや、とツバメ。(かわいい)
王子は自身を犠牲にしながらも、次々と助けを必要としている人に手を差し伸べます。
「届けてきたよ」
とツバメ。
「そうか、善いことをしたな」
と王子。
ですが、ツバメから宝石や黄金を受け取った人々は、必ずしも金目の物を手にして喜ぶわけではありませんでした。空腹と寒さで気を失っていた若い劇作家に、「暖炉の薪を買えるように」と王子は自らの目を犠牲にしてサファイアを届けます。ですが、ツバメが運んできたサファイアをファンからのプレゼントと勘違いし「やっと認められてきた!」とさらに仕事に打ち込みます。寒さで凍えそうなマッチ売りの少女は、同じくサファイアを手にして「きれいなガラス玉!」と、今日も暴力をふるう親の待つ家へ帰っていきます。
ツバメは指摘します。
「何も変わらないじゃないか。独善的だな。」
王子が言います。
「たしかに独善的かもしれない。でもいいんだ。少女があのサファイアの価値に気づいたら、逃げるための時間を稼いでやれるかもしれない」
これが王子の幸福論なのでしょう。自己犠牲と独善。だけど、それでもやる善。
王子の頼みを聞いて街に残り続けたツバメは、やがて寒さで死んでしまいます。ツバメが死んだ瞬間、王子の鉛の心臓は割れ、王子も撤去されてしまいます。
この時点ですべてのキャストが捌け、本高くんひとりですべてのセリフを朗読していました。
次の銅像の権利をめぐって、議員たちは醜い言い争いを始めます。
「次の銅像は私であるべきだな!」「いや、私であるべきだ!」「いや私が!」
市長や議員はとても低俗な印象を抱かせる声色でした(めっちゃ褒めてます)。
そのころ、天国の神様が、天使たちにこの世で最も尊いものを持ってこい、と命じます。天使は、真っ先に、同じごみ箱に捨てられていたツバメの死体と王子の心臓を神に届けます。
「お前は良いものを選んできた。」
と神。
議員とまったく同じ、低俗の声色で、神のセリフを読みます。
「私の黄金の庭でツバメは永遠に歌い、王子はずっと私を褒めたたえるであろう。」
ーー静寂。ゆっくりと中央に移動する王子。
また静寂。
息を吸い込む。
「馬鹿かお前らは!」
音楽が流れて、ゆっくりと王子の王冠を手にして、でも王冠は滑り落ちていって。
そこで舞台の幕が閉じました。
■原作との対比について
舞台を見て、居ても立ってもいられず原作を読みました。英語原文なら著作権が切れているのでネットで読めます。
印象的だった最大の違いは、やはり物語のラストです。
舞台は「馬鹿かお前らは!」というセリフでしまりますが、原作では神のセリフで終わっていて、ハッピーエンドと捉えるのが一般的です。なぜかというと、最後ふたりは神の楽園で、永遠の命を手に入れるからです。
いやいや、永遠の命でハッピーエンド?どゆこと?と全く腑に落ちなかったのでちょっと考えたいと思います。
まず、最後の神のセリフは、原作ではこう書かれています。
for in my garden of Paradise this little bird shall sing for evermore, and in my city of gold the Happy Prince shall praise me.*4
グーグル翻訳だと、こんな感じ。
「私の楽園の庭では、この小鳥は永遠に歌い、私の金の町では、幸せな王子が私をほめたたえます。」
え、これ、ハッピーエンドなの……?楽園で永遠に歌わされて、永遠に神にこき使われるの?王子とツバメが貫いた彼らなりの幸福を実現する自由がまったくないじゃないか。は?なんだこの終わり方は。意味が分からん。とだいぶ混乱しました。
モヤモヤっとして夜しかぐっすり眠れないオタクは、図書館へ行きました。このオタクはよく図書館へ行きます。
そこで見つけた曽野綾子訳の幸福の王子を読んで、いろいろと腑に落ちました。先ほどのラストの文、曽野訳では
「私の天国の庭では、このつばめは永遠に歌い続けるだろうし、私の黄金の町で『幸福の王子』は、ずっと私と共にいるだろう」*5
となっています。
上記のグーグル先生と比べてみると、文章後半の「『幸福の王子』は、ずっと私と共にいるだろう」は作者の意訳と分かります。訳者あとがきでも、ここに触れていました。
ただ一行だけ私が意識的に変えたところがある。それは最後の文章で、神は天に上げられた「幸福の王子」が「ずっと私を賛美するであろう」というのが原文である。しかし聖書の世界では、天国において神を賛美するということは、必ず神とともに永遠に生きることが前提となっている。*6
つまり、最後の文はキリスト教的に解釈すべきハッピーエンドであるわけです。私、信仰はありませんが、たまたま聖書になじみがあるオタクなので(旧約聖書サイコー)ここでピンと来たりしました。
ちょっと宗教学はわからないので、wiki以上に詳しくは書きませんが、ここでは永遠の命を授かり神と永遠に共にいられるというのが、救われて、「幸せ」で、満ち足りた状態であると解釈します。
つまり、王子とツバメは「善いこと」をしたから、天国で永遠の命を手に入れ、救済され、「幸せ」で、満ち足りた存在になった。というわけ。
オスカーワイルドが生きた時代や社会で前提となっているキリスト教の価値観に紐づいたハッピーエンドだったわけです。なるほど、そりゃ一発じゃ分からんて!日本で生まれ育つとあんまり親近感ないよ!と膝を打ちました。納得!やったね!
■最後、王子は何にキレたのか?
では、改めて舞台に焦点を戻したい。原作ではハッピーエンド*7だったわけですが、ロックリーディング幸福王子では、王子がブチギレて終わる。ハッピーエンドじゃない。明らかに解釈が違う。じゃあ王子は何にキレていたのか?
わたしの考えですが、王子は自分の考える「善くないこと」を権力者がし続けていることにブチギレたのではないでしょうか。
まず、王子にとって幸せとは、下の3つに要約できるのかなと思っています。
・快楽≠幸福。幸福は快楽のことをさすのではない。
・自己犠牲。『裕福なものの自己犠牲で全員の幸福が成り立つ』つまりはゼロッサムゲェム。全てはゼロサム。
・王子にとっての幸福は、みんなの幸福。
ゼロサムゲームの勝者側であった王子は死後、経済のゼロサムゲームにおける敗者に富の分配を行おうとします。100-0の勝敗を50-50の引き分けに少しでも近づけようと、困っている人のため、自分自身の価値*8や視力を犠牲にしてルビーもサファイアも黄金も、人にやってしまいます。快楽にふけるための金銭を、困窮した人々に与えます。
そして大前提に王子の考える幸福はみんなの幸福。つまり困っている人がいない世界が王子の中で幸福と呼べるものなんだと思います。そのために、富を過剰に持っている人間は貧しい人に分け与えるべき、という根底の思想があるのではないでしょうか。
視力を犠牲にしてサファイアを分け与えることは「善いこと」。我が身かわいさに財産を一極集中するのは善くないこと。
言い換えれば、
銅像の王子は善い。
生前の王子は善くない。
では最後、王子は誰にキレていたのか?
わたしは、「議員たち」と「神」と解釈します。
次の銅像になろうと、醜く争う議員たち。銅像になるというのは、栄誉や権力(つまり快楽)の一極集中だとも捉えられます。「馬鹿かお前ら!議員という立場にありながら、困っている人たちに目もくれず、快楽のため私欲のため、まだ私腹をこやすのか!」
頼んでもいないのに勝手に“救済”してくれちゃった神。「ツバメは永遠に私の庭で歌い続け、王子は私をずっと褒め称えるであろう。」キリスト教の文脈を当てはめずに解釈すると、天国といえども『富や権力の一極集中』のシステムに王子はまた戻されたと捉えられます。神様100-王子0の、勝者がいるゼロサムゲームが成立しちゃう。「馬鹿かお前!救うべき人は他にたくさんいるのに、お前の幸福=快楽のために俺を使役するのか!」
ようは、「偉い人がこんなんだからいつまで経っても変らねぇ!」という怒りが込められたブチギレだったのではないでしょうか。
■幸福な王子×ロックという化学反応
オスカーワイルドが子どもに書いた原作『幸福な王子』。読む者に欧風の街を彷彿とさせ、旅したことのあるヨーロッパの街並みを思い浮かべるような物語に、音楽を掛け合わせるとしたら何が思い浮かぶでしょうか。私はクラシック音楽でした。
だから、初めてこのロックリーディング幸福王子を知った時は、「ロック????」と宇宙猫になったものです。絵本になるようなお話にロックミュージック?はて?と観劇前の私は愚問を抱いていました。
観劇後の私の感想がこちらです。
めっっっちゃよかった。。。
— は くまい/ぽよ (@molten_pudding) 2020年10月29日
なんでロック?って思ってたけど見終わって納得だ、あれはロックだ
— は くまい/ぽよ (@molten_pudding) 2020年10月29日
舞台で描かれた王子は独善的と指摘されても「バカか!俺はそれでいいんだ」と言って己を貫きます。それってめっちゃロックでは……?
お話はあまり緊迫感もなくゆったりと描かれます。でも、見ていると引っかかるんです。「たしかに独善的だ。」「王子のそれって本当に『善いこと?』なのか?」
最終的に、愛情*9のある関係になったツバメも、王子のせいで死んでしまいます。「ツバメ、それで幸せだったの……?」「王子を無視してエジプトに行く人生(鳥生?)もあっただろうに……。」と。
でも、じゃあ善いことじゃないのか?と聞かれれば、「善いこと」なんです。自分を犠牲にしてまで困っている人を助けようと行動を起こした。それは善いことなんです。
ありゃ。なんだこの矛盾とモヤモヤは。幸福な王子って、全然完全無欠なんかじゃないじゃん。モヤモヤ。
観劇していて、引っ掛かりとモヤモヤと、それでも王子を理性的に肯定したいという葛藤とに襲われました。
ああ、ツバメも死んでしまって王子も死んでしまった。モヤモヤ。
権力と栄光のため争う人間は醜いな。モヤモヤ。
神様も全然救ってくれてないじゃん!なんだよ!モヤモヤ。
静寂。モヤモヤ。
しーん。モヤモヤ。
でもなぁ……。
うーん……。
……。
「馬鹿かお前らは!」
この爆音のひと言でハッとして、馬鹿だわたしは!となりました。
いいんだ、自分の幸福くらい自分の信念で貫いていいんだ。
ロックに語っていいんだ!
わたしの考える幸せの定義、有無を言わずにわたしが守ってあげなきゃ!
カタルシスがすごかった。モヤモヤが一気に浄化される瞬間ってとても気持ちがいい。それをひとつの舞台で経験してしまった。
幸福王子。
幸福「な」王子ではなく、幸福王子。
それは劇を見ている客でさえも、救ってくれる王子だったりするのかもしれません。
一応、参考文献
原作 Wilde, Oscar. The Happy Prince https://www.wilde-online.info/the-happy-prince.html
ロックリーディング幸福王子 https://koufuku-oji.com/
ロックリーディング幸福王子 パンフレット https://shop.mu-mo.net/avx/sv/item1?jsiteid=mumo&seq_exhibit_id=277798
Wikipedia「救済」ページより 救済 - Wikipedia