公開日記(仮)

ヒーロー欲のない厨二病

Defiled感想

よっす、えび担兼業315プロダクションのPです。基本的に日記を公開していくスタイルなので、いつも書き出しはTodayですが公開する日はTodayじゃありません。これを書き出した日はDefiled観覧翌日の5/7、私めは名古屋へ向かっていました。いろいろあった名古屋。心がセンチュリーホールから戻りません。

 

まず注意点

1、多大なネタバレを含みますので読み進められる方は承知ください

2、あくまで個人の解釈ですので、異論は積極的に認めます

3、だいぶ危うい記憶で書きました

4、長いし意味不明です

 

ということで(どういうことで?)

長い長いDefiled感想文の始まり始まり。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2017/5/7

今日は待ちに待ったグリツアっすね。

なのに物販並ぶっていうオタクの本分みたいなのを放棄したゆるPさん、おはよう。多分みんなもう並んでるよ。タオルくらいは買っておきたかったね。

さて今日も今日とてオタ充してますが、昨日のDefiledお忘れなわけありませんよね。あなた、ああいうお話好きでしょう。「響いた」は大袈裟かもしれないけど、かなり好きでしょう。

ハリー、良かったなぁ。戸塚さんの表情の演技が間近で見られて、本当に良い経験できた…あ、うん、オタクとしての良い経験です。それ以上の生産性は私には求めないで…

カード目録の廃止に徹底反対の意思表示として、アメリカの歴史ある図書館に立てこもる爆弾犯、ハリー。それに投降を説得しに来たディッキー。基本的にはこの2人の会話劇で1時間40分(?)、魅了されたっすね。魅了された要因として ⑴ 演出 ⑵ キャラクター の順に書いて行こうかな。まあ平たく言うと全部好きってことなんだけど。

何がまず魅力かっていうと、照明の演出。開演までの間、スポットライトが客席に当たっていた。どういう作用があるかと言うと、客は眩しくて舞台が暗く見える。辛うじて、舞台の壁部分をずらっと覆う本棚のセットと、客席から見て舞台左手にうっすらと机、椅子、そして白いパソコンが見える。
そして何よりも目がチカチカする。ずっと強めの光が当たっているわけだから、一定の高さ以上に目線を上げると、文字通り光が視力を潰しに来る。だから客はあまり舞台セットを凝視できない。同行者と「これも演出の一部かなぁ」とか喋っていたらBGMが止んで、低い低い地面を這うような音が会場に響いた。うおー始まった!というワクワク感と同時になんだかピリピリした雰囲気に包まれてたよね。小さい会場だから臨場感がすごい。
話を戻してライトなんだけど、開幕すると同時にそれまで客の目を潰していた照明がゆっくりと落ち、舞台上のある一点に徐々に光が集まった。ボワ〜っと浮き上がるそのオブジェクトは、大量の爆弾。そんな視覚的演出から始まりました。もう、この時点でかなり好きだよね。
ゆっくりと照明がステージ全体を照らし、出てきたのはカード目録とハリーメンデルソン。あたりを警戒しながらも爆弾をまばらに設置していく。映画ならここでぐわーっとカメラが引いてDefiledって出てくるとこや!オープニングや!って1人でテンションが上がりました。

好きな演出その②はこの後。警察が来て電話が鳴る。ここ。劇場の右奥から青と赤のライトがチラついた。アメリカンなポリスカーが誰の頭にも思い描かれただろう。さらに鳥肌が立ったのは音の演出。洋画でよく聞くあのパトカーのサイレンに被さるように、電話が鳴る。この電話のベル音がとてもアメリカンだった。日本の電話ベルは少し篭ったような、柔らかく鳴る音のように個人的には感じるのだが、この舞台で鳴る電話の音は耳をつんざくベルの音。オノマトペにするなら、日本はポルルルル、アメリカはピルルルル(※当社比)。聴こえてきたのは後者。とてもアメリカンだ。このパトカーと電話の一瞬のシーンで、私は青山からアメリカに飛ばされた。俺いまアメリカだったっけー!?ってなった。

特に序盤は物語に入り込めてないから演出をじっくり考える余裕がありましたが、後半に向かうにつれてハラハラしすぎて(あとハリーに心を奪われて)演出の考察する心の余裕はありませんでした。南無。

わたしがDefiledを好きな理由その②キャラクター。もうバレているかもしれないが、ハリーメンデルソン大好きマンです。ディッキーとの対比で見えてきたハリーというキャラクターについてここから更にツラツラと駄文を生産します。

ハリーメンデルソンという人間を、ひと言で表せる人はいるだろうか。いたら尊敬する。私がハリーに出会ってまず頭に浮かんだのは、乙女座の星座にまつわるお話でした。

そもそも乙女座の由来となった(と言う表現で正しいのだろうか)神話は2つある。第1にギリシャ神話から、ゼウスとその姉であるデメテルの間の子(諸説あり)のペルセポネという美しい女神。ペルセポネはその美貌ゆえに冥界の王ハデスに見初められ、誘拐され、解放されたかと思ったらいろいろあって冥界の女王になった神さま。夫がありながら美しい人間の男アドニスに恋をしたりする。まあアドニスは別の女が好きだったらしいけど、ここではあまり関連性がないので省きます。気になる方はウィキペディアでも読んでみてください。

さて、もう一つの説で今回のハリー考察に関連性の高いのが、アストライアとするもの。この子はローマ神話が元のギリシャ神話の女神なので一説によるとゼウスの娘だよ。アストライアは正義が神格化した女神で、人間に正義を訴える存在だったのだが、段々と暴力と欲に溺れていく人間に遂に嫌気が差し、天界へと帰っていった。彼女は比較的人間が好きな神様だった。その証拠に、正義の神様3人(にん?)のうちで最後まで人間の性善を諦めなかった女神だからだ。だからこそ、許せなかったのだろう、という解釈を占いサイトで読んだ(参照4)。人間が大好きだから、正義に準じて営みを紡げない人間が耐えられなかったのだろう。

話は戻るが、ハリーはきっとアストライアなのではないか。それを如実に感じたのは、元婚約者がトラベルエージェントになったと聞いたときのハリーの反応。心底失望して怒りさえ覚えていたようだった。絶望といっても差し支えないかもしれない。さすがに大げさか。
きっと許せなかったのだろう。トラベルエージェントという単語が飛び出す瞬間まで想い慕っていた唯一の女ですら、妥協して汚く生きているということが。ハリー的「正義」にそぐわない人生を主体的に選択した彼女が、心底好きだから余計に許容できないのであろう。彼は間違いなく頭脳明晰だが、人間的に賢くはない。きっと彼女でさえも理解の及ばない世界に行ってしまったという事実と向き合えないのだろう。また1人自分を置いていったことが、そしてその人物が自分の好きな人だということが、許容できないのであろう。
ハリーメンデルソンとはきっと、そういう人間だ。

潔白なまでに己に正義を追求し、それを他人にも求めてしまう存在は往々にして孤独に陥る。周囲は彼を理解しない。彼は周囲を許容し得ない。それゆえに彼の周りには人がいない。結果としてあのハリーメンデルソンが出来上がる。

そもそもフィクションのキャラクターはどうして「孤独」になるのか。私は2つの要因があると仮定してここでは書いていく(完全に自論です)。仮に孤独に陥る人間をAとし、周囲の人間をBとしよう。まず第1はAが自ら1人になりたがる場合。たまにいるでしょ、関わりたくない系厨二患者。そんなかんじ。第2にB(つまり周囲)がAを拒絶し近寄らない場合。「もう俺にはお前がどうしたいか分からないよ」タイプですかね。

まあざっくりと二分するとこうなるでしょうか。ここで重要なのは、ノンフィクションの世界(つまりリアル)で孤独になるとしたらこの2つのどちらも作用していることが多いのだろうと結論付くということ。良くないことが起こったらだいたいお互い様じゃないですか。社会科学なんて大体そうだ。全部グレーゾーンで程度の問題です。Q.E.D.

あの1時間40分から見えたハリー像から考えると、きっと先述の孤独が出来上がる要因「どちらも」作用した、と言うのが正解なのだろう。「ハリーも周囲を拒絶し、周囲もハリーを拒絶した結果」があれだ。この拒絶の理由は、先に述べたとおりハリーがアストライアだからなのだ。

ハリーの哲学は「汚く生きるくらいなら、美しく死んでやる」に近い。近いというかこの究極とも言えますかね。分かりやすく私たちに提示されたもので表現するなら「カード目録のない図書館が存在する世界で生きるくらいなら、美しいこの図書館が美しくいられる内に俺ごと死んでやる」でしょうか。

ハリーにとってのカード目録は、ただの物質ではない。それ以上の価値や意味が込められている。それは利便性や合理性に留まらず、歴史的に紡がれた知識の価値であったり、オリジナルであることであったり、舞台上でハリー自身の口から語られる思想にふんだんに盛り込まれている。観に行かれた方は何かしら印象に残っているだろう。

個人的に1番印象強かったのが物語の冒頭も冒頭、爆弾を配置するシーンでハリーはカード目録を踏み台にする。その時は左の靴を脱ぎ、白い靴下でそーっと、乗った。寝ている我が子を起こさないよう忍び足で寝室に入り込む父親のような、そんなようなハリーのカード目録を愛おしむ気持ちが伝わってきた。ああ、この人の正義はカード目録と共にあるのだ、と伝わってきた。

話は変わるが、劇中の会話でハリーの事件は「ちょろい」か「難しい」かの議論が交わされるシーンがある。ハリーが聞く。ちょろいケースってどんなの?ディッキーが答える。ちょろいケースってのは、犯人が俺に諭されるのを待っているときだ。だから話を聞いてやって優しい言葉をかけてやれば、即解決だ。ハリーが聞く。じゃあ難しいケースってのは?ディッキーが答える。難しいケースってのは単に時間がかかる場合のことではなく、犯人がキチガイのときだ。説得するためには相手の論理に合わせて話さなきゃならない。少しでも踏み外したら一貫の終わり、そんなケースは難しい。

そしてハリーは聞く。「じゃあ僕は?僕ってちょろい?難しい?」

このときディッキーは答えを出していない。君は諭されるのを待っているタイプには見えない、だからちょろいとは言えない。だが君はキチガイでもない。わからない。と言うだけだ。

私は、観終わって数日たった今でも、この問い(ハリーはちょろいか難しいか)に答えが出せないでいる。それは私にとってハリーが、「分からない」存在だからであろう。

私がハリーメンデルソンが何なのか分からなくなったのは、ほんの一瞬の出来事であった。それは、ハリーが爆弾を手に持ちながら大演説をかますシーン。興奮状態の彼は爆弾を振り回しながら、カード目録の上に立ち、たいそうなことを口にしていた。「時代が僕に与えた使命」だとか「僕は爆弾を持っている。つまり権力を持っているんだ」とか、ディッキーを説得しながら「勝者になろう!」だったか、正確には覚えていないがそんなようなことだった気がする。このとき、彼は、土足で、カード目録を踏み台にしたのだ。

分からない。なぜ、冒頭ではあんなにも愛おしそうに扱ったのに、ここに来て踏むのか。彼の正義はカード目録と共にあるのに、熱っぽい演説を披露しながら靴で踏めるのか。分からない。

私の思考でたどり着けた唯一の解釈は、「自分に酔いしれていたから」だった。結局ハリーも、メリンダ(先述の元婚約者)のように、ハリー自身を裏切ったのだ。完璧主義者で理想主義者からなんとも醜いエゴイズムとナルシシズムが露呈した瞬間だったのであろう。「かくあるべき」という確固とした美しい理想を遂行する者が、「僕が」と主張する。あの瞬間、ハリーに「論理」は通じただろうか。いや、あの瞬間はきっとディッキーの言うキチガイだった。

このシーン(だったかはよく覚えていないが、何かしらの大演説を聞いた)後、ディッキーは静かに立ち去る。トランシーバーで上司と二言三言言葉を交わす。「私にはこのケースは荷が重すぎます」と。

ディッキーが舞台上からいなくなってしまった。ハリーはまたひとりぼっちだ。しばらく誰も言葉を発しない時間が続く。直前まで2人の男が声を張り上げてぶつかり合っていたのに、舞台上から1人いなくなるとそこにはハリーの足音や椅子が床にぶつかる音以外、何も聞こえなくなる。静かだ。
ディッキーにも置いていかれたハリーは、電話の受話器を戻す。あの図書館の舞台で外部と連絡が取れるもののうちの1つを、繋がるようにする(少し記憶が曖昧なので間違っていたらごめんなさい)。
この受話器を戻すシーンの痛々しさと言ったらない。涙が出るくらい、彼の寂しさや人恋しさが伝わって来た。そう、ハリーはあんなんだけど、人間が大好きなのだ。人と関わることが大好きなのだ。ディッキーが、大好きなのだ。もっと仲良くなりたかった。一緒に夢を語りたかった。大きな理想を共有したかった。ハリーお前ってやつは。まったく、なんて不器用なんだ。

果たしてハリーは本当に「難しい」のか?論理の通じないキチガイなのか?いや、実はただの寂しがりやで諭されるのを待っている「ちょろい」ヤツなのではないか?そんなことが頭をよぎった。

またしても分からなくなった。ハリーは「難しい」のか「ちょろい」のか、「キチガイ」なのか「寂しがりや」なのか。

いちオーディエンスである私も、劇中人物のようにハリーを理解し得ない人間なのだろうか。私もまた、ハリーを諦め、ハリーに諦められ、彼から離れて妥協して行く人間なのだろうか。イタリアの田舎町の小さなカフェで美味しいコーヒーを飲めば感動はするが、スターバックスの新作フラペチーノを片手にショッピングモールでウインドウショッピングをすることにも楽しさを見出しそれを許容し、ゆくゆくはイタリアの小さなカフェを忘れいくのではないか。社会がアメリカの女流作家に与える影響についての卒業論文を書いて、手近な男と結婚しトラベルエージェントとして働くことに拒否を覚えない人間なのではないか。もしかしたら私も、実はメリンダなのではないか。

ハリーが好きで、ハリーの思想が好きで、ハリーの生き様が好きで。でも近づけば近づくほど苦しくて。自分には彼は救えなくて。いや、ハリーを救うというのもおかしな話なのだろう。しかし救ってやりたいと思うこの心がある限り、私はメリンダなのだ。

「イタリアはすてきなところだったわね、ところで週末のデートはおとといオープンしたブランドショップへ行きたいわ。」「あのコーヒーも素敵だったけど、スターバックスのコーヒーも案外いけるわよ」「私たちはイタリアに住んでいるわけじゃないんだから、そんな理想ばっか言ってないで現実を見ましょうよ」「アメリカだって捨てたものじゃないわよ。経済は安定している、自由がある、おいしい食事がある、それに、あの図書館はまだある。小さいことでも幸せを感じられるって、とても素敵なことだと思わない?」。終いには「お互い大人になりましょう」なんて言うんだろう。

そんなの、ディッキーとやっていることは同じだ。

妥協したくらいじゃ人間死なないよ、諦めた先にある幸せもいいもんだぞって説得しようとする。実際そうなのであろう。妥協しても幸せは見つかる。イタリア系のセクシーな嫁を貰えるし、家族みんなで嫁の手料理を毎日食べられる生活が待っているのだろう。それは間違いなく幸せで、生きるってそういうことなのだ。

しかしハリーメンデルソンはそんな「生」はいらない。彼にとっては『生きがい』が『死にがい』になり得るのだ(パンフレットより)。彼も幸せになりたい。人が好きで、人と幸せになりたいのだ。きっと可能であろう。しかしそれは、ハリーがアストライアをやめない限り不可能だ。

一向に交わらない平行線の議論。これこそが、あのラストシーンに繋がるのだ。まじカルチェイムさんすずかつさん小田島さん始めディファイルド作った人たち天才だな!!!!!勝村さんに関しては、もう素晴らしすぎて自分も怒られている気分になったよ。役者すげぇ…モノホンやぁ…(誰)

最後に、また1つ素敵な舞台に出会わせてくれて、とっつーありがとう。この矛盾と人間味に満ちたハリーメンデルソンというキャラクターを魅せてくれた戸塚さんは、胸を張って「私の好きなアイドルなんだ。凄いでしょう」と言える存在だ。間違いない。よね!

 


参照
1、ペルセポネ ウィキペディアページ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ペルセポネー

2、乙女座 ペルセポネ説
https://uranailady.com/shinwa/otome.html

3、アストライア ウィキペディア ページhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/アストライアー

4、乙女座 アストライア説
http://ptn48.shaberizon.jp/virgo.html 

5、Defiledパンフレット